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話は尽きない

四月十一日、日本書芸院創立七十周年と大阪市立美術館創立八十周年の共同企画展「王義之から空海へ」を約二時間ほど駆け足で見て、後日もう一度今度はゆっくりと見たいものだけ見て来た。

見ながら考えたこと。
○当時書記官が自由、適当に書いていた簡略文字をしっかりと約束ごとを決めながら歴史に残る「草書」にした。義之はいわば草書なるものの原形を作り上げたのである。作り上げたばっかりのものは、人間に限らずすべての動物の子供が可愛いと同じように生まれたての「品」がある。平安の「かな」も同じ。
○ところが年を経るに従ってあたりまえのように品は失われてゆく。百年単位ぐらいにしたいが、まあ三百年単位ぐらいにしておこう。
○決定的なのは机の上で鑑賞していたものを額や長条幅などにして壁に掛けて鑑賞するようになったこと。
○当然大字が増える。一字一字より全体の眺めを重視するようになる。今まで巻子の一部分をそっと机の上にひろげて近くで見ていたものが突然距離を置いて見るようになった。
○気迫、気力は努めて外へ、大勢の鑑賞者を同時にうならせるパフォーマンスが絶対必要となって、ひっそり室内で楽しんでいたものがいきなり大劇場での演出に—。
○それは北宋あたりでそろそろ終結。といっても宋の三大家(蘇東坡、黄山谷、米芾)ではすでに巻子といえども文字の大小、特に米芾などは渇筆にまで気を配っている。私はこの頃から滲む紙、今でいう本画仙らしきものが作られはじめたと思っているのだが—。それまでの書作品にはほとんど滲みが見られない。かすれはあっても紙面のザラザラのためで、墨が紙にしみ込んでいない。
○ふと、もし義之、献之あたりが大字を書いたら(書いただろうが当然残っていない)あれだけの品格が保てていたのか、と思う。
○どこかで見た米芾の大字石碑は本物だったかどうか。唐の大字は顔真卿の「郭氏家廟碑」、宋の大字は蔡襄の「萬安橋」ぐらい。やはり格調は少々低い。
○日本では展覧会がそれに拍車をかけた。近代日本では赤羽雲庭が好きである。いわゆる俗気のかけらも見えない。
○これは言っても詮ないことかもしれぬが、お金に執着しなくてよかったこと、弟子を取らなかったこと、手本を書かなかったこと、門伐に深入りしなかったこと、日中のみならず世界の美術品が家中にあったこと等々。
○中国での長い書の歴史を眺めていると、民族の匂いともいえるかすかな差違をいくつも見ることができる。現在でも見ただけですぐわかるのが女真族(満洲)。北魂の鮮卑族、米芾でもかすかに西方サマルカンド地方(祖父か曽祖父がそこの出身者)の匂いがすると思いたい。しかし一族は皆声楽家や琵琶の名手やら、ともかく芸術家肌の者が多かったとか。
○日本と違って陸続きの中国は、多民族の流入が激しい。戦いは絶えないし多民族との混血など想像を絶するほどいた筈で、頑に民族の血を守り抜いているのがどれくらい居るのか。
○純漢民族とおぼしき二王とその縁籍の者、それまでの貴族主導より一般庶民の優秀な者での政治を目指したのが隋以後。科挙の試験は超難関になるが、それとて優秀な家庭教師をつける資金がいる。それに優秀な成績でパスした東坡以下清末までの書人たちの家系図でも捜して、興味深くその人たちの作品などを見くらべて見たいほどである。
○普通の字、突飛な字、に関係なくそれはありそうだ。そして時代性も大きい。今の中国の政治家など文字の品を問われることもないし私の知っている限り郭沫若、呉昌碩、毛澤東、周恩来あたりがギリギリか。おしなべて皆格調は低い。
○…話は尽きない—。気が向いたら続きでも書こう。しかし本当にいいたかったのは、こんないいものを見ていながら(もちろん印刷も入れて)、日本の書家(あえて日本といっておく)はなぜだんだん品格の落ちる時流に流されていくのだろう、ということ。私を含めてのことであるが、
この辺のこと、うまく言える時期(年齢と学識)が今の私に来ますかねぇ。

江口大象(書源2016年8月号より)

 
   

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