投稿日: 2014-04-28
カテゴリ: 巻頭言(江口大象)
今年にはいってからである。あるバラエティー番組を見るともなく見ていたら、若い男の芸人の部屋がそのまま、いつものまま映されていて、その汚さに驚いたことがある。汚いといっても不潔ではない。ただ雑然としていて、ベッドの上は何でもかんでも放り投げられる物置と化し、自らは横のソファーで寝ているとのこと。部屋中足の踏み場もない。
部屋が汚いのは「文字」ではわかりにくいが、綺麗なのは案外よくわかるものである。部屋がキチンと片付いているのはいいことだし「君の家はきれいに掃除ができているね」とつい言ってしまうことがある。
昔、ある著名な仮名作家の家を訪ねたとき、教室の整然としているのに驚いた。墨の香がわずかにしていたかもしれない。五十畳ほどの広い部屋の左右に、それに合った昔風の廊下があって、障子をそっと開けてはいると、先生は堂々たる大机に腰掛け姿で応待して下さった。向こうの廊下は三十メートルはあろうかと思われるガラス張りで、ずっと奥まで続くすばらしい庭園。幅は十メートル足らずだったが、ともかく汚いあばら屋から出て来た私は腰を抜かした。この先生はすでに故人で、それ以後の消息は風の便りだけである。
さてその仮名の先生は、常にキチンとした字を善かれた。それは晩年まで変わらず作品も含めて教科書のお手本にしてもいいような、背すじのピンと延びた字を書いておられた。
私はほとんど後片付けをしない。食事のときなどがその最たるもので、カンピールを冷蔵庫からたまに出してくるぐらいで、あとは食べるのみ。教室は二年はど前から(書をやらない)手伝いの人に来てもらっているので、撃と硯を洗うことすらしなくてよくなっている。
歴代の吾人の作風を見ていると、初唐の三大家あたりの字はそこそこに片付いてもいたし、豪華な調度品もあったと思われるが、高宗や顔真卿はそれはど気にかけなかったと思われる。宗代の蘇東坡も黄山谷も顔真卿程度、ほどほどということ。米芾はどうだ。神経質なところとどうでもいい部分とが混在していて、まわりから見ると(特に女性)ちょっとからかってみたくなるような一面もあった-。一々を気ままに論評してみたいがキリがないので-。
書家は堂々と見せたいとは思っているはずだ。ただその「堂々」が人によって違う。現実に人間には痩せ型、でっぷり型、筋肉質、関取り風があるように書の作品もいろいろ。結局どちらでもいいものはいいのであって、どちらがどうという問題ではない。そして個性、性格、好みへと話は移ってゆく。ものの本質さえ見失わなければ-その上にどこかで喋ったが、ユーモアと色気-まあこれは個人的に過ぎるか(小坂先生の作品にはそれが溢れていた。)
さて私、私は作品を見ればはぼわかるように、部屋の掃除が不得手な人、多少散らかっていようが気にしない人、周囲に人が居ようが居まいが、喧噪の場であれ静寂の場であれー。よくテニスやゴルフの試合中はカメラのシャッター音でも厳禁とかいうのを見ると、ならば野球はサッカーは相撲はと思いたくなる。発祥の地の国民性の問題か。
私は大阪弁でいう「ええ加減」が好きである。関東弁では「大まか」でいいのか。日本画でいえば鉄斎型と夢二型(この前の二十人展金沢展のために泊まった宿のすぐそばが竹久夢二の画廊であったが見なかった。)
皆さんはどちら?私の好みに合わせますか。いや無理に合わせなくても-どちらでもいいものはいいのです。
江口大象 (書源2014年5月号より)
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