投稿日: 2011-08-12
カテゴリ: 講演会
皆さん、どうもこんにちわ。今日は、いい天気の中をどこへも行かず、ここへ来ていただきまして、ありがとうございます。今日はたくさん来ていただきました。この会としては多いほうだそうです。しかし、私の話は下手ですので期待をせずに聞いてください。
先ほど野中正陽先生から私の紹介がありましたけれども、私は昭和10年1月生まれ。中国の青島で生まれたようです。「ようです」というのは、私は知りませんでして、物心ついたころには天津に行っておりました。だから、天津に終戦まで、昭和20年までおったわけです。天津というところは港が近いからね、終戦になってから引き揚げてくるのは割合簡単でしてね。翌年にはもう日本にいました。佐賀です。私の両親とも佐賀の出身で、向こうで結婚したわけですから、佐賀に帰ってくるのは当たり前なことです。初めは佐賀の西松浦郡の西分というところに行ったんです。
そこに一軒親戚がありましてね。そこの西山代小学校。どうだろう、ここの中で知っている人がおられますかね。三方を山に囲まれて片方が海です。三方を山に囲まれた、ちょうどその中心の小高いところに学校があるわけです。そこに約二カ月ぐらいいて、あとで考えたら、多分いづらくなったんだろうと思うんです。親戚のうちには行ったといってもね、私のおじいさん、おばあさんもおりましたし一家8人が田舎の家にどっと行ったら、「もう出ていってくれ」と言われるに決まっていますわね。あのころはまだ小学4年ですね。4年じゃないわ、中国で4年だ。こっち来て5年生に入ったんです。ところが、その後、佐賀市内に行くことになったんですが、佐賀市内の学校は多分レベルが高いだろうと、私はその小学校で5年生だったのにまた佐賀でもう一遍5年生をやったんです。
私、5年生を二遍やりまして、初めは西魚町の親戚宅にお世話になったんです。学校は循誘小学校。しかし、またすぐそこの親戚からも「出ていけ」と言われて出ていって、勧興小学校の前のあたりに住むようになったんです。もうぼろぼろの家やったんですけどもね。ここに住むなら住んでくれ言われた家でね、もう斜めになっていましたね。あのとき地震があったらすぐ倒れてましたね。あの家は。
あのころは中学校に行くのは、くじ引きだった。中学校は第一中と第二中しかなかったからね、小学校のクラスの中でくじ引きをするんですよ。私は背が高いだけのがき大将で、大体私の言うことはみんな聞いてくれていたのに、そのくじ引きのときになってですね、私の家のすぐそばにあるのは第一中、今でいう成章中学校です。それで、第二中というのは城南中学校だから遠いんだ。それで私は第一中に当たればいいなと思いながら引いたら、第二中やったんです。そしたら、すぐ隣のいつも言うことを聞いてくれる男に「おまえ、これかえてくれ」と言ったら 「嫌だ」 と言ってそのときだけ拒否をした。「頼むから」と言っても絶対に交換してくれなかった。
結局、私は渋々成章中学校のすぐ前から遠い遠い城南中学校まで毎日通ったわけです。通学路は、今、舗装されていますけど、あのころはまだ蛇が道をはってましたね。
ところが、そこで野中紫芳先生という私の書道の手ほどきをした先生のクラスに偶然入りまして、それが運命の一種の別れ道だったんですね。あのとき素直に友達が一中と二中をかえてくれていたら私は書道やってないと思いますね。あのころは子供が多かったから、10クラスぐらいあったんじゃないかと思うね。そのうちの1クラスは野中先生が担任だったわけですよね。そこへたまたまはいった。野中先生は国語の先生だったんですけど、あのころは書道の先生の免許は大学卒業じゃなくて文部省検定。それに受からなければ書道の先生の免状はもらえなかったんです。
野中先生は、その文部省検定の最後ぐらいの試験に受かったばっつかり。張り切っておられたときなんですね。それで、国語の先生なのに国語の授業よりも書道にカを入れておられた時期でしてね。それで私は書道が好きになったんです。褒め上手というのはやっぱり教育者としてはいいですよ。「ああ、君うまいな」と言われてね。私はそのとき本当うまいかと思ったんですよ。初めのころは手本を書いてもらっていたんですけど、あるとき、おまえは原本から書けということになってですね。それで、あのころは古本屋に戦後の書道雑誌が山ほど積んで売ってありました。昭和25年か26年ぐらいですね。そのころは家の中の本がみんな古本屋に出たかと思うぐらいあったわけです。しかも安かった。大体一冊10円だったですね。それを片っ端から買ってですね、片っ端から臨書していた。そういうのが私の中学時代ですね。
高校に入ると、立派な先生がたくさんおられましたね。書道だけで三人の先生がおられたんですけども、そのときにやっぱり先生が偉かったのは、余り手本を書かなかったことですね。書道部員はみんな勝手にやっていました。私が入ったときに部長だったのは西村さんだったと思います。それから、今ここで話された野中正陽先生が次の部長。私がその後の部長をしました。その後で、この前亡くなった古賀雲汀さんは次の部長です。私の話の後のほうで見てもらいますけども、そのときに熊本から出ている雑誌がありまして、その雑誌の表紙裏に小坂先生の日展の作品が載っていたんです。私が高校二年のときに、それを見て県展に出したところまあまあの成績をもらいました。でも後で土肥春嶽先生から「あのときの佐賀県展はレベルが低かった」と言われましたね。その後、一席という
のは野中正陽さんも高尾秀嶽さんももらうんですよ。
私は、そういう思い出があって小坂先生のところに師事したんです。それが高校二年のときです。もちろん通信指導です。あのね、実を言うと私は貧乏人だったから、そのころの日展に入っている先生というのはやっぱり偉い先生でしょう。大阪におられる先生ですよ、小坂先生はね。その先生に「通信で入れてください」と言ったら、「月謝は幾らだ」と言われるに決まっているでしょう。言われても払えないに決まってる、お金がないから。だから、こっちのほうで月謝は幾らにしてくださいと決めて、手紙を出したんです。それから何十年かたってからですよ。「かつてはこうやったけど」言うたら、「そんなことあったかな」と幸いにも全然覚えておられなかった。金がないんだもんね、しようがないわな。あのころね、半紙1枚1円ですよ。その頃、私の家が商売していましてね。あのころは風呂を沸かすのに今みたいにガスじゃなくて薪やった。親戚の江口材木店というのが直ぐそばにありましたんで、そこの製材所に輪っかを持っていって、そこに薪を詰めまして一把作るんですよ。それを200円で仕入れて、自分の店の前で250円で売るんだ。その50円のもうけで半紙が50枚買えるんです。ほかのものは私の収入にはならないけれども、薪だけは私の収入やったんですよ。薪買ってくれた人はここにいませんか。あのころは道行く人をね、買ってくれんかなと思いながら見ていましたね。
今日は「限りない書の魅力」ですね。もうちょっとまじめにやります。大きな項目で、見る側、見られる側、努力目標と補足。補足はどうでもいいんですけどね、時間が余ったらしましょう。それで補足の補足でね、私の門下が、私の書いているところをビデオに撮っている。とにかく私の書いているところをビデオに撮りたいという弟子がおりまして、でも、横でカメラが回っているのにね、一発で仕上げるって難しいよ。そのままのもんだもんね。
(平成22年11月14日 佐賀県文化団体協議会 発足50周年記念 江口大象講演会「限りない書の魅力」より)
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