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ゆっくり歩こう

 ボケの初期とはこんなものじゃないかと思える日があった。あったではなくてこのところだんだんひどくなってきている。
 ついさっき考えていたことを思い出せない。いい巻頭言になりそうな材料だったのに、わずか1分前のことである。床に就いて寝ながらいい考えが淀ぶときなど、今起きてメモを執ればいいのにと思うが、メモをすれば折角の眠気が醒めてしまう。当然翌朝まで覚えている筈がない。こんな風にしていいネタが今までいくつ日の目を見ないことになったか数えきれない。

 きのうの夢はベットの下に塵が5センチはどたまっているものだった。だれかがベットを横にずらしたところ、ひどいほこりで、こんな上に寝ていたのかと驚いて目を醒ました。
 この前の喜寿個展では定時制高校の教え子を自分が高校の時の同級生と間違えてちょっとの間話を続けていた。私が24歳の頃の18歳なので、相手も70歳を越している。禿げてもいる。
 近ごろ何か所作をするたびに、冗談ひとつ言うにせよ、そのたびにオレは76歳なんだぞ-と思うことにしている。思ったとたん、そうかオレはもう76歳なんだと改めて確認して愕然とする。この繰り返しである。私の行動はすでにボケかかっているくせに幼い。幼児化である。
 せめて改まった場での言動ぐらいは「人生の達人」らしく見せかけねば、とは思うこともないことはないが、そんなことはハナからできる筈がない。

 その点世の長老は日々精進の賜で、たくさん居られるだろうが、中でもナカソネさんとナベツネさんはマスコミでお顔を見るだけにただただすごいと感じさせられている。それで思い出すのが藤原楚水先生のご壮健ぶりで、先生が大学でわれわれを教えておられたのがちょうど今の私ぐらいのお歳、それから延々平成2年109歳(多分当時の日本男子では最高齢ではなかったか)で亡くなられ
るまでずっと原稿を書き続けられていた(出版社の人の話)とのこと。出版社も100歳を過ぎるころから、先生が書いていただくまでは私達も続けたいと思っています、と先生とともに会社を閉じる意向をあきらかにしていた。
 いつかどこかに書いたようにも思うが、あのころの楚水先生の板書の字はすごかった。これは撮っておくべき、と思いだれかのカメラを借りて数枚撮ったのはよかったが、残念ながらすでに手元にはない。縦横無尽、気力横溢、私は授業よりも字だけ見ていたように思う。

 人生の師は周辺に満ちあふれている。「ゆっくり歩けばいろんなものが見えてくる」 とどこかで書いたように思うが、そろそろ駆け足人生はやめねばならぬと思いはじめている。ゆっくりよそ見をしたい。 - 躓かぬよう。

江口 大象 (書源2011年8月号より)

 
   

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