投稿日: 2011-08-12
カテゴリ: 講演会
■ 見る側
「見る側」いいですか。皆さんね、展覧会をたくさん見てください。複数で見る。一人で見ちゃいかん。要するに、しょうもないと思っている展覧会でもね、いいかもしれない、いいと思っている展覧会も悪いかもしれない。そういうことをお互いに話し合えるような友達。先生と行ったらいかんよ、先生が「これはいいんだぞ」と言うたら「はい、そうですか」言わにゃしゃあない。だから、話し合えるような友達と行ってください。それは二人じゃなくてもいいですよ、三人でも四人でもいいんですけどね。展覧会はね、社中展がありますね。それから、グループ展がある。個展がある。遺作展がある。その中で絶対見てほしいのは遺作展。これね、人間が生まれてから死ぬまでの間、書をずっとしたかどうかは別としましてね、遺作展をしてもらえるぐらいの人というのは、書に命をかけた人でしょう。その人が、初めのころはこんな字だった。中でこんな字になった、死ぬ直前はこんな字になったというような人の一生を見れるわけです。そういうのは遺作展以外にはないからね。ですから、遺作展というのは是非見てください。どんな人でも見てください。自分でもあんまり好きじゃないという人でも遺作展は見てください。そのほうがいいと思う。
その次に個展を見てください。個展というのは一点出すわけじゃないでしょう。やっぱり何十点出すわけですから、その人の実力が丸わかりになる。行書、草書ばっかり書いている人も困るけれども、楷書ばっかり、または篆、隷ばっかりとかいうのもいかんし、いろいろな書体で書かにゃいかんわけでしょう。ここでついでに言いますと、楷・行・草・篆・隷の五体全部書ける人でなければ本当の書家でないと言っている人がいます。これはうそ。うそというよりも不可能。中国では、詩も書も画も全部やらにゃいかん、そういうことになっています。でも、その人が亡くなってから評論家が言うには、あの人はいろいろのことをやったが○○しか見れんかったとか言っています。例えば、王羲之でもね、あの人の篆書・隷書見たことありますか。なくても王義之でしょう。極端にいえば一体でもよければいいんです。
それで、この展覧会の中で特に言いたいのは、骨董の展覧会。骨董ということはね、焼きものとかも含めてですけども、ここで言うのは書道の古いもの。例えば、1000年ぐらい前の人、500年ぐらい前の人の展覧会がもしあるとすれば、たとえ一点でも見に行ってください。中でも中国の昔の作品は特に見てください。日本人はね、実を言いますと、名前で見る。名前で見るからいけない。例えば、字は下手でも何とか大臣というだけでいいと言われるわけですけども、中国ではそうじゃないね。本当にいいのがいいわけです。中国の、例えば唐あたりはもうほとんど残っていないけど、宋、元、明。元はあんまりいいことないな。やっぱり異民族の世の中というのは余りいい字が残りませんね。異民族の世の中にいた漢民族の字が残っていますね。明、清あたりの字が展覧会に出ると聞いたら何はともあれ行くことです。何でこんな字が残るのかということをなど考えながら見たらいいと思いますね。単に、だらだらと残っているわけじゃないですよ。やっぱりいいから残っているんだな。そういう気持で展覧会を見てください。
さて、複数で見るということは今言いました。でもね、まるっきり素人はダメ。というのはね、まるっきり素人というのは、まず初めに読むことをする。これ何て書いてあるんやろう、わからん、わからんでおしまいにしてしまう。そういうのは鑑賞ではない。読まなくていいと言ったら語弊があるかもしれんけど、大体読まなくていいですよ。
例えば、フランスでもどこでもいい。ヨーロッパのオペラを聞きに行ったとするでしょう、あれ何言ってるかわかるんですか。わからんでもいいものはいいでしょう。字も一緒です。声のかわりに線質です。何が書いてあるのかわからんけどわかるというのが書の真髄です。だからね、まず読みましょうというのは本当に素人。最後は読まにゃいかんですけども、まずはいろいろなことを感じてください。そして、複数で見ることのいいことはね、個展であっても二点あったらどっちがいいかとかね。普通の展覧会やったら、この人とこの人、こっちがいいとかね、そういう議論をしながら見たらいいと思うよ。複数で見るというのはそういうことですよ。自分の意見だけで見たら、とんでもない見方をしているかもしれないしね。とにかく読めることとわかることとは全然違うということだけはわかってほしい。読めたということはわかったことじゃない。それから、雰囲気を見る。会場に一歩足を踏み入れたらすぐわかります。そして、格調を見ましょう。お上品だけじゃあかんですね。下品もだめだな。元気ばっかりいいというのはいいことないですね。元気のいい字も書けるけども、おとなしくて格調の高い字も書ける、そういう実力を見てほしいと思いますね。とにかく「いい気分」 というのが一番よろしい。楽に書いている雰囲気。作品を苦しそうに書いている、嫌々書いているのは駄目。私は、たまに弟子に言うんですけどね。目の前に半紙持ってくるだろう。「これは嫌々書いとる」今日の稽古日に間に合わそうと急いで書いとるなということはわかるわけですよ。月に二週しか稽古はないのにね、その日の朝になって書いとるわけやね。それから、抜けているか。抜けているかいうたら、頭が抜けておったら困るけども、そうじゃなくて、金縛りに遭っていないかというような意味です。例えばね、風なら風という字を例にあげると、かぜがまえは、こう書かにゃいかんとかね、そう思い込んで書いている人の字はすぐわかる。たまたまこうなっているのはいいですよ。でも、初めからこう書かにゃいかん。いわばレールの上を走っているような字は見たくもない。だから、展覧会見たときに抜けているかどうかというのは、そういうことです。例えば、蘇東坡の字を勉強した人がおったとします。その蘇東坡の字ばっかりずうっと学んでいるのはよくない。蘇東坡に縛られている。蘇東坡を勉強して、蘇東坡を基調にして書くのはいいですよ。いいんだけども、蘇東坡そっくりに書いたらいかん。なぜか。理由は簡単ですね。蘇東坡よりうまくならん。蘇東坡とは違った道を歩かんことにはね。
あなた方、だれかに今ついていますか、先生にある程度まで行ったら、その先生の字とちょっと違う道行ったらよろしいよ。先生にほれて行くんだから初めはその先生の字にべたーっとくっつく。何年くっつくかは個人の好みですけども、あ
るところからは先生からちょっと横道に外れる。そうせんとね、先生と同じ字書いたって先生よりうまくならないですよ。これは断言できるね。同じ道ではだめ。第一に体が違う、呼吸が違う、趣味も含めてなにもかも違うでしょう。違うのに一緒の字書いてもだめ。自分の間尺に合ったというかな、体に合った字、そのような字を見つけないかん。いつまで生きようと思っていますか。あのね、私、今年75歳、ぼちぼち76歳。あと何年生きるか知りませんよ。知りませんけどね、もう死のうかというときになっても、その先生の字を書いてたらだめです。そうでしょう。何にもならないじゃないですか。やっぱり活字を見て、自分らしい作品を書くというのが書を習う本当の目的でしょう。
王義之でさえも勉強するのはよろしいよ。でも、王義之の字を書けるはずがない。時代が違う、身分が違う。そういった字を絶対書けないですよ。あれは品位を保つために臨書をするものです。王義之の法帖を見たらわかるでしょう。あれは右の行を意識しないで書いている字です。だから作品として見ることはできません。一字一字見るのはよろしい、全部よろしい。でもね、中国人が拓本を編集するときに行間を切るんです。切ってね、この字はこっちにしようかとか言いながら本をつくっていくんです。だからね、王義之そのものも右の行を意識していなかったとは思うんですけども、後世の人が右の行に関係なく字をずらす。今、日展でも何でもよろしいけども、展覧会作品の行間を切ってずらしたら、むちゃくちゃですよ。ですから、王義之の字からは品格とか、いわゆる格調とか書の正しさとかいうのは学んでよろしいよ。しかし作品のつくり方は学べない。
私が弟子にいつも言っているのは、何を臨書する場合でも半紙に四字か六字書くとするでしょう。そしたら、原本が長く書いてあるからといって、こっちも長く書くかというたら、そうせんでもいいわけですよ。短くしたらいい。要するに、半紙にうまく収まるように臨書すればいいんですよ。それはね、原本どおりに書く期間も必要ですよ。初めからそれやっとったらいかんけどね、あるところまで行ったらの話ですよ。とにかく臨書は原本のまま書くものではないと私は思っています。次、何か盗むものはあるか。これはね、例えば、さっきの蘇東坡、米芾でもいいですけどね。原本を見るでしょう、そしたら臨書してもいい、見てもいいけど、何かを盗もうと思ってください。形全部、一字全部を自作に移すんじゃなくて、はねを盗む、転折を盗む、打ち込み方を盗むとかね、そんなふうなことをしていくんです。盗むものはあるか。だから個展を見たら、この人の字から何か盗もう。口を悪く言えばね、あんまりうまくないけど、盗みたいものはある。それでいいんじゃないですか。
それからね、書道をやっている者の楽しみとして、異体を大いに使って下さい。例えば一つの字にしてもね、これはこう書いても、ああ書いてもいいんだぞというのがたくさんあります。本当に山ほどあります。それを自分で使ってみる、異体を覚える。
今、学校で 「節」 とも 「筆」 もたけかんむりでしょう。しかし、かなりあれは難しい。それを古人はほとんどくさかんむりに変えています。この二字に限らず異体はいっばいありますから、それは書をやっている人の楽しみとして、ぜひ覚えてください。
それから、筆順もいろいろある。一つに決めないでほしい。例えば、「馬」や「必」という字。筆順は三つ、四つある。だからみんなの前で「これ間違っていますよ」 と言うのは、よはど知識がないと言えないでしょう。
(平成22年11月14日 佐賀県文化団体協議会 発足50周年記念 江口大象講演会「限りない書の魅力」より)
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