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昔の話(5)

書く気が失せてしばらく途絶えていた「昔の話」を、二、三人の方から催促されて、また少し書いてみようかと。もう七十年以上前のことだ-、何か気恥しい気持ちも多分にある。
前回の第四話は五十二巻の五号。そこで途切れているので二年ぶりか。日本到着が心底うれしくて母と抱き合って喜んだことで話は終わっている。母三十四歳、小生十一歳。
上陸して休む間もなく列車へ。そこで一杯の味噌汁とその日の食事代程度のお金が頭数分母親に手渡されたように思う。味噌汁は日本の味。母とお互い目を見て「美味いね」と言い合った。列車は行き先ごとに分けられ、当然江口一家は九州行き。超満員で出入りは窓。

先ず西松浦郡の山の中にある親戚の家へ。会社整理のため現地に残った父を除いて七人家族。どんな関係の親戚だったか。村に一つしかない西山代小学校の五年に入学(中国での小四はほとんど行っていないので本当は四年にはいるべきだった)。田舎の家へ突然七人がはいれば気まずいに決まっている。約一カ月で佐賀市内の西魚町へ。そこの親戚宅にお世話になったのが五月。六月に父が帰って来てさあ大変。すぐ転居。ウロウロしているのを見かねて民生委員の人が、ここで良かったらと米屋町(現白山町)の崩れかけた一軒家を見つけてくれた。二階建てといっても藁葺きの天井からは二カ所はど空が見えていた。床は斜めで、梯子と古畳をどこからか貰ってきてその二階へ祖父母と子供四人。二カ月間だけの約束だったが引揚者用の入居の抽選に漏れてそのまま居座り。中国からの衣類を一枚一枚お金に変えていたのだが、いよいよ食べものに困って田舎の親戚まわり。親戚の何軒かには農家が多く「その辺のもの何でもいいから引っこ抜いて持って帰って—」。そのとき食べた大根の丸留りの何と美味しかったことか。近くの小川で泥を落としただけ—。

そんなこんなで自然に八百屋さんに。一介のサラリーマンだった父は即不慣れな八百屋のご主人に。しかしそんな仕事が続くわけがなく、必死で勤め先を捜して五年後に建設会社のソロバン係になって八百屋は自然に母へバトンタッチ。二年契約だった大家さんは当然カンカンに怒ったらしいが、近くにいた遠い親戚のおじが中にはいって和解したようで、そのうち母は正式に中央青果の組合員になり、それから十四、五年の八百屋業に。私も裏でこそこそと売っていた八百屋業も親戚まわりをして自転車の荷物寵(佐賀ではこれをダンベーという)一杯の野菜を運ばなくてもよくなった。
今度の小学校は目の前、歩いて三分の勧興小学校、五年生。学校へは毎日行っていたと思うが、よく覚えていない。

江口大象(書源2020年5月号より)

 
   

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