投稿日: 2017-02-04
カテゴリ: 巻頭言(江口大象)
何かのメロディーが頭の中から消えずに初中後(しょっちゅう)くり返し口ずさむことがある。日がわりのときもあるしそれが二、三日続くこともある。
今日の私は「一年生になったら友達百人できるかな」で、自分の子供や孫の当時のことを飛び越えて、私自身の小学校一年生のころが連想され、つい昔のことを少し書いてみたくなった。
私は中国天津にあった大和小学校に通っていて、友達は一学年一クラスだけの多分二十人ほどではなかったかと思う。もちろん校名通り日本人だけの小学校。先生も当然日本人、教科書もすべて日本のもの。習字の教科書の著者は井上桂園だったような気がしている。でも習字の時間の授業風景はさっばり思い出せない。筆を持って書いたのだろうが、家の床の間に誰か日本人の掛軸が掛かっていたのを微かに覚えているくらいで、書とのつながりは中国では全くない。
四年生が終戦の年。家から学校までわずか十分足らず。道幅四メートルほどの田舎道の左側には兵舎、右側は空港予定地だという、ものすごく広い原っぱ。もとは沼地だったらしい。そこに近くの白河から泥水を引き込んで自然乾燥して埋めたてる。私が行ったときは既に沼地工事は終わっていて、その時に使ったであろう土管が兵舎の横に放置されていた。私達の遊び場の一つである。
空港は結局埋めたてただけでとてつもなく広い広場はそのまま。夏は子供の背丈ほどもある草が芭々と生い茂って周囲はほとんど建物がない。特に東西は地平線が見えていた。だから太陽もしっかりと地平線から出て西の地平線へゆっくり沈んで行くのを、別に美しいとも壮厳とも思わず、日常の出来ごとの一つとして眺めていたと思う。星空は見事なもので、雲一つない夜など星がないところがない、ほんとに一面満天の星空。これは不思議なほどはっきり脳裏に焼きついている。その大草原がいつだったか蝗(いなご)の大群がやってきて、一日で食べ尽くされたことも鮮明だ。蝗は翌日大集団で空高く飛んで行った。
父はカネボウ中国支社の北支棉花(ほくしめんか)の社員で、私が生まれた青島を含めて五回引越しをしている。そのうち四回は天津の中だけ。社宅が出来上がるのを待っていたのだろうか。
私が四歳の時の天津一帯を襲った大洪水は大変だった。天津の田舎全体が沼地になってしまって、父を残して一家は両親の里佐賀へ一時帰国する破目に。社宅から白河までどうして行ったのか。ともかく白河は二十人東りくらいの小さなボートで下って港へ。そのボートに流れてくる死体がときどきコンコンと当たる。ともかく幅三十メートルくらいの中国では小さな川の四分の一くらいだろうか死体が無数に流れていた。一人二人なら可哀想とか怖いとかあるだろうが、あれだけ一度に見ると犬か豚みたいでただボーつと見ているだけだった。それは七月で母は妊娠中。十二月に三人目の子を佐賀で無事出産した。
大洪水が何か月かかって元に戻ったのか、ともかく中国は平地なので水引きが悪い。この時日本にどれくらい居たのか、一年近く居たのかもしれない。この間私は幼稚園に行っている。なぜ覚えているかといえば、佐賀弁の渦の中で一人標準語しか喋れない私を皆がからかったからで、今でいう軽いイジメである。
(いつかつづく)
江口大象(書源2017年2月号より)
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