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カツラの話

四十年以上にもなるか、家内が行きつけの美容院の主は、最近とみに毛が薄くなってきたらしい。いくら育毛剤を飲んでもこれですよと愚痴る。そこで家内が毛なんてどうでもいいじゃないですかといったらしい。もちろん主人である私の毛のことが頭にあったと思うが、私とてどうでもいいと思っている。
強烈な養毛剤は心臓や腎臓に悪いそうですよ-と家内。それはわかっています。でも禿るより死んだ方がましです。

彼は宝塚のスターを妻にしたダンディーである。お客さんも宝塚関係者が多いらしい。だからでもなかろうが、二セの毛は絶対にいかんと思っている節がある。お客さんにはカツラを作って売っているのに自分はカツラでなく本物の毛でないといけないという。家内はワカランと真顔でいう。

私の毛はもうほとんどない。それでいいと思っているから何ともないが、先日ある先生から、しみじみ「君の毛はいつからなくなっているんだ」と聞かれた。その先生は私より高齢なのにフサフサである。「栗原先生ご存命中に同じことをいわれましたので相当昔からです」と答えたが、もうこれ以上大して変わらんだろう。書作品も同じようなものでもう変わらんような気がしている。

七十歳を過ぎて変わりたい人は変わってもいいが、書人として根っこの部分は変わらぬ方がいい。成長と変化とは全く違うと思うが、ここでいう変化とは衣装を変えることで、いわばカツラである。カツラとは人真似である。昭和にはいってからでも突然カツラを変える書人が複数おられた。それがまた上手いので皆拍手喝采したものだが、亡くなる寸前までそれをされると、本当のお姿は?ということになる。

今日は長髪明日は短髪、はたまた一カ月後はチョンマゲ、金髪。見る方は面白いが本当のお姿を見せずに亡くなられるのは惜しい。変化はカツラのとり替えである。臨書も同じで、相手の本当の姿、自分が真似のできる範囲を覗かせてもらってからやればよい。だから若い間、書歴の浅い間はいざ知らず、ある程度の期間を過ぎれば楷行革の別はあっても、何を書いてもその人の字、何を書いてもはぼ同じ、というのがいい臨書だと思うのである。カツラを無数につけたり外したりしながら書人はオノレの書を作り上げてゆく。しかし決して無視はしない。中林梧竹ほどではないにせよ、小坂奇石。自分の師であるからいうのではなく、あの七十歳以後の先生の臨書は一つの理想ともいえる。何を書いても小坂奇石であった。

制作の上ですっぽりかぶる倣書作品はカツラである。

江口大象 (書源2014年11月号より)

 
   

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