投稿日: 2013-06-02
カテゴリ: 巻頭言(江口大象)
近年書道界は正統派の元祖王義之さん顕彰の行事でわき返っている。わが日本書芸院も何かしら考えているようで、もう漸く続きそうである。
特に半年ほど前の東京国立博物館の「書聖王義之」は、直前に「大報帖」とやらが突然出て来て、世紀の大発見だと報じられたため、入場者はひきもきらないと聞く。入場者の半分以上は直接書と関わりのない人だろうし、書家として嬉しいことである。
西欧で単に「AB」とだけ書かれた紙切れが、その線質に惚れて売買されることは絶対にない。西欧でも文豪の自筆原稿などであれば又別の意味で貴重だろう。しかし日本中国では、意味のわからないいくつかの字が並んでいるだけで、それが今回のように王義之などであれば国宝になる可能性だってあるのである。
「断簡零墨」とは、あの人のものならたった1行でもいい、たったひとつふたつの点画だって、ともかく拝みたい、欲しいという熱烈なファンの叫びである。あの人というのはとりあえず万人が愛する王義之としておくが、もちろん大好きな書人の名をそこに入れればよく、さしずめ日本なら空海だろうか、いや良寛という人もあることだろう。
意味などどうでもいいとまでは言わないが、「何が書いてあるか」よりもわずかな断片でも表具をして自室の壁に掛けたい、と思わせる激蹟を求めている。それは名士の作を高値で買うこととは根本的に違う。安倍総理の字はタダでもいらぬ。力士の色紙も、ましてスポーツ選手のサインなど。
私もかつてまだまだ購買欲のあった頃、中国で、落款さえないどこのだれとさえわからぬキズ作品を何点か買って来たことがある。
そんな楽しみ方を日中の書人はするのだということが、今回の王義之展で広く一般の人にわかってもらえたのなら嬉しいのだが。
それにつけても最近のテレビ、新聞で見る「書家」といわれる人たちの何とひどいことか。全員がそうであるとは言わない。しかしひどいと思う。あれが現代の「書」だと思わせる力がメディアにはあるので恐ろしい。王義之あたりから続く2千年近い正統の歴史を、たとえ書をやらない一般の人へ伝えるのがメディアの仕事ではないのか。
今メディアは何もわからずに東洋の文化を潰しにかかっている。そんな自覚さえない。
江口 大象 (書源2013年6月号より)
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