投稿日: 2013-01-27
カテゴリ: 巻頭言(江口大象)
たとえば傅山を勉強していたとする。その傅山が書いた崩しが絶対正しいかどうか。傅山でなくてもいい、趙之謙、張瑞図、八大山人も干右任も—-。かといって宋以後は安心できるか。いやいや宋の三大家だって怪しい崩しは山はどある。ならば義之は、義之は書を芸術として位置づけた人、草書創成の祖なので疑ってはいけないとは思うが、彼の字は双鉤填墨か拓本でしか残されていないので疑ってかかる必要がある。中でも拓本は何度も彫り直されたので、何の字だかわからないものがたくさんある。「十七帖」などはその最たるものである。
というよりは彼等は1枚キリしか書かないから「あっ!間違った」と思ってもほとんど書き直さない。良心的な人はその字の右にチョンと点と打って「すみません」と謝まってくれている。しかしそんなことしている書人は稀れで、たいがいの人はそのまま書き続けている。尺牘、草稿、メモの類がそれで、またひどいことに間違いに近いその字をまともに字典に崩しの1例として出しているから仕末が悪い。
字典にあるから正しいとはいえないんだ、といっておく。その人しかしていない崩しは使ってはしくない。書人もある程度有名になってくると、自分だけの崩し字でも周囲が認めてしまう。頑固にその崩しを数年も続けると、それが正しい崩しかと自分で納得してしまうのではないか。だから創作に使う崩しは複数の書人がやっているものがよい。珍しいひとつだけの崩しを自分の作品にとり入れるのはバカである。
私もそんな時代が長かった。面白い字を入れたいと思って字典を見る。アルアルと思ってその1字を作品に入れる。しかしそれはいけないと今になって思う。
普通の字を普通に書いて味が出せるのが書人の終局の目的ではないのか。極端にいえば奇異なことをして面白がるのは一種の「逃げ」ではないのかとも思う。1本の線の味、長短、太細、潤渇、横画や縦画のちょっとした間隔の違い、などで文字はうまれ変わるものなのである。特別なアクロバット的スタイルをとらせなくても面白い字は山はどできる。又それが書の面白さでもある、書人の努めでもある、と思いながら書に取り組んではしい。
冒頭の傅山の話に戻ると、明末から清にかけての、あの途方もなく面白い書作品の数々は、オノレの生き方に対する自信から生まれたもので、まわりもそれを認めていた。極端な話、少し名のしれた文化人なら、道の真中に酔いつぶれてひっくり返って寝ていても周囲は認めていた。日本の現代とは違う。「時代性」もあるだろうが、戦後の西欧文明に阿る姿勢は改める時期に来ているのではないかと思っている。
またしても少々論点がずれてきた。次号はもう少しずれた論点で書きたいことを書こうと思う。
江口 大象 (書源2013年2月号より)
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