投稿日: 2011-08-14
カテゴリ: 講演会
■ 補足
それから、「補足」 よかった。今日は補足まで行くかなと心配してましたけど、行きましたね。補足として、性格と書風。これは、その人の性格に合った書風があるんですよ。それで、さっき野中正陽さんが、私、中国育ちだから、ぼーっとしてると言うた、ぼーっとしてるじゃなかったっけ。(笑)。茫洋としてると。(言われたんですね)どちらでもいいんです。いいんだけれども、人間には性格がありますね。性格によって字が変わってきます。逆に言いますと、字を見たら性格がわかる。だから、それは筆で書いたものが一番わかるんですけれども、ペンで書いても大体わかります。あんまり手本を一生懸命見た字はだめですよ。自分の字で書いた字はわかります。だから、自分の性格に合わない字を頑張ってやらないこと。自分は膨らみたいのに、ぎゅっと絞るとかね、反対に、絞りたいのに膨らませるとかいうのはね、それは嫌で嫌でしょうがない。自分の性格に合わない古典はしない。ストレスになると私は思ってますね。
私は小坂先生につきましたのですが、弟子は先生の教え方をまねするね。それで、何年か前の私のこういう講話でね、自分の、璞社の人にしたとき、小坂先生の教室風景でまねたいことと、まねたくないことを列挙したことがある。例えば、小坂先生はね、展覧会の作品を選ぶときに、三枚並べたとします。「真ん中がいい」 と先生が言われますね。そしたら、先生は 「真ん中を持ってきなさい」 と言われます。持ってきなさいということは朱で真っ赤になる。一番いい作品を選んで真っ赤にするというのが小坂先生だったんですよ。ぼくはあれを見てね、あれはしたらいかんと思うた。私は、実を言うと一枚目のほうがいい場合が多い。ということは、一枚目を直されたら元も子もない。私はね、必ず、一点はいいのを残すことにしているんです。よくなくても残す。これ以上うまくならんかもしれんと思ってても、今日の段階でいいというのを残します。
「年齢と自論」。これはどうですか。私ぐらいの年齢になりますと、周りもそういう年齢でしょう。そうしたらね。みんな自論持ってますね。書はこうあるべきだという自論を持っています。それを聞いてね、その先の書風を思い浮かべます。そしたら、その先生の書風がそうなるんだろうという自論です。ということは、自分の人生がパアになることはしない。要するに、七十、八十、九十になりますと、やっとここまできたんだという自分への信念がありますね。書はこうあるべきだという信念の自論です。それは、その人の年齢と書風とを考え合わせて読んだら非常におもしろいと思いますよ。
「家族の目」。今日は、うちの奥さんが目の前におるからあまり言えん。実は、私は学校の先生をしてましたので、昼間は学校に勤めとった。それで、墨をする時間がなかったので、「私が学校に行ってる間に墨すっておいてくれ」 と言うて、帰ってご飯食べてから筆を持っていた。ところが、昭和四十七年、墨すり機ができました。皆さん覚えてますか。昭和四十七年以後に書をやっている人は墨すり機専門でしょう。うちの家内は喜んだ。多分、昭和五十年ぐらいからみんな墨をすらなくなったと思いますよ。スイッチひとつで、文句を言わずすってますから、あれはよろしい。
墨汁もですね、私が教員をしてた頃は墨汁の出始めのころだったからね。業者の人に、「学校の購買部に墨汁は入れるな」 と言っておった。でも、あのころは、二時間連続授業だったんですよ。だから、墨するのに30分かかっても別に構わんかった。今は墨汁使うのは当たり前。墨すってたら時間がなくなる。そうですけれども、本当は墨はすった方がいいです。墨すり機でもよろしいけれども、すったほうがいい。
皆さん、書をやってる人もやってない人もおられると思うんですけど。実をいうと、やってない人のほうが書がわかる場合が多い。やってる人はね、細かい。ここは1センチ長いとか、ここが狭いとか言いますね。やってない人はそんなこと見てもおらん。全体を見ていいとか悪いとかいうふうなことを言います。だから、書をやってない人の目は大事にしたいと思う。本当は書をやってない人に見てもらったほうがよろしい。奥さんか、だんなさんか子供でもいい、書をやってない人が家の中におるんやったら、どっちがいいかということぐらいの最後の判断は素人がいいですよ。素人のほうが全体を見る。細かいところには目が行かない。行かないからいい。
(平成22年11月14日 佐賀県文化団体協議会 発足50周年記念 江口大象講演会「限りない書の魅力」より)
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