投稿日: 2011-08-12
カテゴリ: 講演会
■ 努力目標
次。終わりに近づいてきたけども、努力目標。まず古典の選定。古典は山はどあります。だいたい、1000ぐらいありますね。1000ぐらいあるうちの一つの古典に1000字ぐらいある。だから、全部やろうと思ったら命がもたん。ですから、これは合わんと思うたらやめる。そうせんことにはね、もう命がもたんよ。せいぜい100ぐらいに絞ってください。そして、もうあと寿命が十年ぐらいかと思うたらね、二つ三つに絞る。だんだん絞っていかんとね。そして、最後には古典を捨てる。そうせんことには書家人生は完結しないと私は思います。
とにかく、自分に合うやつ。自分に合うやつということは、呼吸が合うやつ。例えば、一字目、二字目書いて、次の字が何という字だというのがわかっているとする。そんなとき手本を見ずに書いても手本通りになるような古典。ということは、自分の呼吸に合った字だというわけ。少し字の形は違ってもいいですよ。いいんだけども、次の字を、手本を見んでも手本みたいな字になるような字。そういう古典を自分で探す。そんなになってきたらね、あんまりないよ。三つ四つ五つ、そんなもんでしょう。
ある先生の書道教室の話をしますと、月一回の稽古しかないという先生がいました。その先生に、弟子に何をさせるんですかと聞いたんですよ。そしたら、2×8の大きな紙に臨書をして持ってこいと言う。例えば、米芾でもよろし。ところが、もう一枚の紙に漢詩を書いて、それを米芾風に書いてこいと言うんだそうです。それが毎月あるんだ。それはね、一ケ月でできないと思うわ。思うけども、させてるんだな。あれは、教室風景としてはいいかもしれないね。
私はそれを聞きながら、うちではまねはできないな思うたんですけどね。あれ難しいわ。一つは臨書してこい。それとそっくりの字をまた別の漢詩で書いてこい。
古典研究をするときに、別の漢詩を書いても、その人の字になるような古典というものを自分で見つける。それが大事ですね。若いときはだめ。だんだん年いって、60ぐらいになってからかな、ぼちぼち見つける。自分の体に合った古典というのは何かなということをですね。
それから臨書について。これはさっき少し言いました。臨書はそっくりに書かなくていいと私は思います。断言します。細かいところまで見て書いてもしょうがない。というのは、その古典を書いた人がもう一遍書いたら全然違う字になるはず。たまたまそのときそうなったんだ。それを今の人が一生懸命まねしてるというのはおかしいと私は思う。だから、ええかげんに見る。古典はええかげんに見たほうが私はいいと思います。楷書の石碑などは違いますよ。主に法帖、尺牘の話ですよ。
例えば、ある先生が言いましたけどね。水墨画を習っている人が木を写生するときに、そのまんま幹から枝を必ずくっつけて書く人はだめだということです。たまには幹から外れた枝も書かないかん。
何かわからんような顔してるけど、見たまんまそのとおりに書いたらいかんということ。それは書道にも当てはまるんじゃないかと私は思います。だから、原本がくーっとはねているところをとめてもいいでしょう。はね上げてないところをはね上げてもいいと私は思います。でも、どうしてここで、原本通りに書かなかったかという理由は要るよ。なぜここではね上げたんやろうというのはいかん。
それから「書の王道を歩む」。しかし、これは何が王道かが大問題。私の考えてる王道と、だれかの考えてる王道とは違うかもしれない。王道というのは中心なんですよ。書の歴史の流れの中心から外れないということです。
例えば、日展で、十回入ったからもういいといって日展を離れる人がいます。離れたらたいていの人はすぐに王道から外れる。あれ不思議だね。自分の書きたいものは別にあったんだ。だから、日展をやめても王道から外れなかったらいいですよ。外れたということを本人がわかってないといかん。これは難しい話。自分で自分の品格を決めるのと一緒だな。自分が今、王道から外れてるかどうかというのは自分で判断してください。そして、王道が何だということは自分で判断してください。
中国の明の時代ぐらいまではずうっと王道を歩んでいますね。中国の書道界も。ところが、中華民国になってから王道を外れてるのがいっぱいあります。外れた有名な人がいっぱいおります。しかし、外れていながら、いいなという人もいます。それはそれでいいですよ。いいんだけども、それは王道がわかってるからいいんです。外れてるのがわかってなくて外れている人はどうしようもない。
「自分らしい作品をつくる」。これはさっきから言うてることをまた繰り返すみたいなもんだけどね。とにかく、誰やかれやの物まねをしながら自分の字をつくっていくんですよ。自分の先生の字も、自分の決めた古典も入れながら自分の字をつくっていくんですよ。つくっていって、最後は自分らしい作品をつくる。これはいいことですけれども、今の王道の話と似てますけどね、逃げ道をつくるなということ。逃げ道はいかん。
細かいこと言いますと、どんな字を書いてもね、どこをどうしたら字が大きく見えるかということを考えて書いてほしい。小さな字を書いても、どこをどうしたら大きく見えるか。実際の大きさよりも、字が大きく見えるような書きぶりをするというのがいい。やっぱり、あんまり字は締めないほうがいい。締めて有名なのは、例えば、欧陽詢あたりの行書を見てたら、ぎゅっと締まってるね。あれはあれでいいですね。あれはいいんだけれども、比率から言うたら膨らんでいるほうが多い。
(平成22年11月14日 佐賀県文化団体協議会 発足50周年記念 江口大象講演会「限りない書の魅力」より)
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